度々叫ばれる食の安全。壱番屋が廃棄した冷凍カツが転売された事件もまさにそうだ。我々が毎日、口に運ぶ食べ物への信頼。それは、命に直結する問題であり、決してないがしろにされてはいけない。
「食の安全」を考える上で、忘れてはならないのが「食品添加物」だ。どうも得体が知れず、毒性ばかりが気になる。食品を加工するのに使われている物質の全てを「食品添加物」と一括りにすることで、その実態の見えにくさに余計拍車がかかる。
その食品添加物について切り込んだのが、『食品の裏側―みんな大好きな食品添加物』(安部 司:著/東洋経済新報社)だ。およそ10年前の2005年10月に出版されており、食品製造の「舞台裏」を告発した初めての本であると、著者自身が評している。安部司氏は、かつて食品添加物の専門商社に入社し、実際に食品添加物を食品加工メーカーや製造工場に販売していた。どんな食品添加物が、どんな食品に、どれほど使われているのか、かなり衝撃的で生々しい内容が細かく書かれているのだ。
その恐ろしい「食品の裏側」をいくつか紹介したい。
まず、ご飯のお供である「タラコ」。低級タラコは食品添加物に一晩漬け込むだけで、あっという間にピカピカの高級品に変身するという。ポリリン酸ナトリウム、亜硝酸ナトリウム、リンゴ酸ナトリウムなど、10種類以上の「白い粉」に漬け込むことで、スーパーに並んでいる高級タラコができるというのだ。著者はこう述べている。
みんなが「おいしい」と言って喜ぶタラコや明太子、かまぼこの味――それは化学調味料の味なのです。いわば添加物の味を食品の味だと思って食べていて、化学調味料を「おいしい」と言って喜んでいるのです。
次に、贈り物として大活躍する「ハム」。ハムの原料は豚肉だが、たとえば100キロの豚肉のかたまりから、120~130キロのハムができるという。一体何が増えたのか。その正体は「水」。水を原料とした、熱で固まる「肉用ゼリー液」を注入し、肉の組織に均等に打ち込む。それをもみほぐして成形して加熱すると、ハムが出来上がるという。
業界に「プリンハム」なる用語があります。響きは一見可愛らしいのですが、要は水を肉の中で固めたハムということです。業界では、搾れば水が出るくらい水を含んでいるということで、「雑巾ハム」とも呼ばれています。
そして、食卓に絶対になくてはならない「しょうゆ」。しょうゆには2種類あり、「本物のしょうゆ」と「しょうゆ風調味料」があるという。では、その「しょうゆ風調味料」の作り方とは? まず、大豆などのたんぱく質を塩酸で分解して、アミノ酸を生み出す。これに「化学調味料」「甘味料」「酸味料」「増粘多糖類」「カラメル色素」「保存料」を加えて出来上がり。混ぜ合わせるだけで簡単というのだ。それが特売で売られているしょうゆの正体。著者は、この2つのしょうゆの違いについて、こうたとえている。
本物のダイヤモンドは非常に高価です。一方、人工ダイヤモンドというものがあって、値段は本物よりもかなり安い。この2つは、見た目は似ているけれど、まったくの別物です。同じ土俵で比べられるものではない。
同書を読み進めるほど、背筋が寒くなってくる。これが「食品の裏側」なのだ。
しかし、著者は決して「食品の安全」について、食品添加物の「毒性」について、消費者を煽りたいわけではない。食品添加物には「光」と「影」があり、その両方を見つめなければならないと訴えているのだ。食品添加物のおかげで、我々は「便利さ」と「安さ」という大きなメリットも手にしている。加工食品の発達があったからこそ、いつでもどこでも食べたいものが「安く」手に入る「便利さ」を手にした。食品添加物を一切排除すると、スーパーに並ぶ食品の大半が消えることになる。著者はこう述べている。
添加物を単純に目の敵にし、拒否するのではなく、どう付き合うか、どう向かい合うか。どこまで自分は許せるか。それこそが大切なのです。
さらに著者は、子どもたちが「本物の味」を失っていると嘆いている。化学調味料が家庭の味になりつつあると危惧しているのだ。同書は、ただ、食品添加物の恐ろしさを述べているわけではない。そのせいで失っているものについて、それを一番伝えようとしているのかもしれない。
同書の始めで著者自身が「食品添加物の神様」と評された過去について触れている。かつて食品添加物の専門商社に入社し、実際に食品添加物を販売していた経緯を述べているのだが、読み進めるに連れて、過去を淡々と語っているというよりは、懺悔しているようにも感じた。
食品添加物によって我々は何を手にして、何を失っているのか。それを考えるきっかけとなる1冊だ。